机探しの旅③

2011年9月11日

5月10日深夜2時。
 C航空に乗り、上海経由で成田へ向かう。キンキンの冷房をイメージしていたが飛行機のなかは暑かった。電気代を節約しているのかトラブルなのか、ビールを頼むとぬるいのが出てきた。氷もない。
神様は最後の最後まで僕に冷蔵庫の支給をしてくれないらしい。出された機内食は袋に入ったスナック菓子が中心。どれも食指の動かないものだったが、試しに一つ開けてみるとなぜか細切れのたくあんが入っていた。

 早朝、上海の空港に到着。
空港の待合室で、同乗した日本人女性に話を聞くと、彼女の席はリクライニングがまるで効かなかったらしい。スッチーに告げると「ここは非常口なので倒れないの」とにべもなく断られたという。空席は結構あったので移動を勧めてもいいと思うのだが……。

 冷たい水が飲みたかったので自動販売機を見ると、ボタンが三つ並んでおり、それぞれ「温水」「温水」「熱水」の文字がある。

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なぜに温水が二つあるのか? 元々は冷水だったが排除したのか?
 暇つぶしに自販機を見るとスプライトには「雪碧」の文字。むちゃくちゃカッコいい。カリスマエナジードリンクのレッドブルはそのまんま「紅牛」だった。

搭乗口から飛行機までつなぐ通路には、いくつものポスターが貼られていた。博士帽子を被った笑顔の女性や、握手している手のアップの写真が並んでいたが、どの紙にも「成功」の二文字のみ。一体どんな意味があるのか謎だが、不思議とテンションが上がってくる。明日には小説コンクールの結果発表が待っているのだ。

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そして、ようやく到着した成田。
2年2ヶ月ぶりの日本だ。
雨が降っているせいか、じっとりと重たい空気を感じる。
すぐに喫煙室に飛び込むと独特の緊張感を感じた。

誰も目を合わせない。
誰も独り言を言っていない。
誰も歌を歌っていない。

日本→タイ→ネパール→インド→ネパール→インド→ネパール→タイ→日本

旅行ではなく、まるで移動のような今回の旅で印象的だったのは、現地人の好奇心の強さとあまりにも歌っている人の多いことだった。
他人の目なんか気にすることなく、バンコクのネットショップ屋店員はいつも一人で歌っていた。二店舗に行ったが両店のスタッフとも明らかに男色家と思われる。可愛らしいハイボイスが、冷房でギンギンに尖がった空気に心地よい丸みを持たせていた。

ネパールの服屋へ行った時は歌いながら店員が近づいてきた。インドのウェイターはメニューを眺める僕の横でダミ声ソングを熱唱していた。聴いて欲しいというよりはただ歌いたいだけのようだった。それでも、どの国でもデパートや飛行機内など、ハイソサエティな場所では極端に歌の数が減った。金持ちの間では静かにするのが流行りらしい。

喫煙ルームにはゴオオと空気清浄機の音だけが響いている。
これが、日本社会独特の冷淡さなのか? 僕は再びこの社会に溶け込めるのか? 歌いながら仕事するくらいのノリがちょうどいーんでないんか?
そんな風に思っていたが、さすがは日本。空港内で冷たい水が飲めるのは当たり前として、道を尋ねても誰もが恐ろしく親切だ。どこに行っても深い深い安心感で満たされてくる。
若者殺しの時代だなんてどうでもいい。不況なんて僕にはまるで関係がない。やっぱりこの国に生まれて良かったのだ。

成田から鈍行で羽田へ。切符を買うときはまるで買い方がわからなくなっていた。
電車に乗ると、「お忘れ物のないように」「まもなく」「乗り換えは―」親切な車内アナウンスの雨あられだ。
羽田空港では「重ねましてホニャララ」が連呼されている。
立ち食いコーナーで天玉そばを食す。涙が出るほどうまい。
海外では、外食は誰かと楽しむために存在するものだが、日本では一人でも
他人の視線を気にせず楽しめる店が多い。引きこもりにはもってこいな国だ。

待合室でテレビを見る。
「男ですいません」のジョージアCM。面白いCMだった。けれど「女ですいません」と言ったら大変なことになる。これが今の日本社会なんだろう。
 
料理男子。眼鏡男子。
男子と呼んでいいのは何歳までだ? せいぜい20代までじゃないだろうか? それでも若く見えるならまだいい。テレビに映る料理男子は明らかにおっさんだ。あと10年もし、僕が40代になる頃には、更なる受け皿が必要になるだろう。あと30年もし、僕が還暦を突破する頃には一体なんと呼ばれているのか? グランドパパ? ジェントル? ダンディボーイ??

2年も経つといつの間にや芸能人も老けている。

変ってないのはタモさんと鶴べえだけだ。

スカイマークで故郷札幌へ。飛行機のチケットの裏には楽天50円DVDレンタルの広告と花やしきの割引券。どうしてすかいらーくの割引券がないのだろう?
どうでもいいがシートベルトの日本語訳は、「お座敷ベルト」らしい。
窓から見える夜の空港は美しかった。
カラフルなライトが花のように浮かんでいる。いつかは滑走路の上を走ってみたい。限りなく猛スピードでジャンボジェット機と競争するんだ。もちろん、走りながら「オマ×コー!」と絶叫するのは忘れまい。

目を覚ますと新千歳空港に到着していた。
バスで実家の最寄り駅へと向かう。空港内でもらったパンフには美味しそうなお土産の数々が並んでいる。
ラーメン、しめ鯖、いくらに寿司に、スープカレー。
旅の途中、何度も何度も脳内妄想で食していた。食べまくりたいと思っていた。ところが日本に帰った途端、その気持ちはかなり薄れていた。いつでも食べられるからだ。

駅からタクシーで実家へ。
バス通り沿いに見える飲食店は幾つも入れ替わっている。いつものことだ。毎年帰省するたびにどこかのテナントが変遷していくのだ。それでも囲碁サロンは割と近くに二店舗あるが、どちらもご健在のようだ。皮フ科の『フ』もご健在だ。多分、僕が死ぬ時になっても『フ』のままでいるのだろう。ネパールはタメル地区でも、雑居ビルの片隅に貼られたくしゃくしゃのポスターはずっと2年間、くしゃくしゃのままだった。変らないものは街の片隅にひっそりと存在しているのだ。

タクシーを降りるとすぐに母ちゃんが出てきた。
「やっぱりやせたね。うちで少し太んなさい」
時刻は23時過ぎ。
リビングに行くと眠そうな顔の親父がいる。
予想通り頭頂部の砂漠化は進行していた。これだけは違うDNAだと今でも信じている。
リビングにはオヤジが日曜大工でこしらえた家具がいくつも並んでいた。「そのうちそばも打つのか?」と尋ねたところ、「今のところDIY(自分の手で生活空間を工事するの意)に夢中だ」と言ってきた。

嬉しかった。オヤジは元々建築家志望だったが、地元の四流大学を卒業したあと、結局堅実なガスの道を選んだ。出世にも長いこと縁がなかった。そのオヤジの夢が、還暦間近になった今、叶っている。いや、自分で叶えているのだ。

デジタル非対応の小さなテレビはシャープのアクオスに様変わりしていた。ちょうど時期的に買い換えようとしていたところ、年賀状のお年玉くじで一等を当ててしまったらしい。今年壁紙を張り替えたらしく、リフォーム会社から来た年賀状が我が家に幸せをもたらしてくれたようだ。先方の手違いでなぜか葉書が二枚届いており、番号はバラバラだったという。もしかしすると昨今流行の「引き寄せの法則」が働いたのかもしれない。

少し待つと、好物のなめこ汁と筋子にご飯、簡単なサラダがでてきた。
美味い美味い。
なめ子も筋子も裏切らない。いつだって舌の上でねっとりと上質の愛撫を奏でてくれる。僕には文子も含め、少なくとも3人の彼女がいることになる。
日本の米は、ダントツで世界一だ。粘り気がまるで違う。
親は二人とも眠そうだったが、話題は尽きなかった。

日本で使える電話を買わねばと母ちゃんの携帯を見せてもらった。メール欄をチェックするとオヤジから頻繁に入っている……が、どれも内容は「帰宅」の二文字だけ。そのまま「今から帰る」の合図らしい。「『き』って入力すると一発で帰宅に変換できんだよ」得意げにオヤジが語っている。

パソコンでネットを見るとやたら重い。オヤジに聞くと「調子いい時と調子悪い時があるんだ」と赤ら顔で語ってくれたが、単純に一時ファイルが溜まっているだけだった。
音楽ファイルを一つダウンロードしてみると、ネパールやインドで30分かかっていたものが3秒で落ちた。感動した。

食後。バスクリンの湯に浸かってこれまでの旅を振り返る。
2年2ヶ月。

長かった。
日本でサラリーマンやってた時より三倍増しで長く感じられた旅だった。
楽しかった。
書いたりしこったり。飲んだり踊ったり。欲望に忠実に生きてきて良かった。
終わった。
机探しの旅が終わった。
カレーだらけの毎日が終わった。
冷蔵庫のない生活が終わった。
泡だらけの生ぬるいビールを飲むこともしばらくない。
始まった。
浴槽のある生活が始まった。
ウォシュレットとトイレットペーパーの生活が始まった。
風呂は有難いが、お尻の処理は今でも指でイイと思っている。
その方が清潔だからだ。

翌日。5月12日、運命決着の日。
吉報は夕刻16時半に訪れた。
「健太、電話だよ!」
 寝ていたところを母ちゃんに叩き起される。
 一階に降り、受話器を握ると、真面目そうな男性の声が聞こえた。
「先ほど選考が終わりまして~」
 声のトーンが低い。ダメだと思った。無理だと思った。
「大賞に決まりました! おめでとうございます!」

 やったーーーーーーーーーーー!

 心のなかではない。本気で大声に出して叫んでしまった。
ソファに座る母ちゃんも同様にやったーーーーーーーーーーー! を叫ぶ。

電話を切り終えても心臓がバクバクしていた。
死にそうだ。死んでもいい。死にたくないが、死んでもいい。
いやいややっぱり生きていたい。生きていたいし、生きている。
引き寄せられた。確実に引き寄せられた。見えない何かに、まるで吸い寄せられるように―。

 すぐに北海道新聞の人から電話が来た。「おめでとうございます!」まだ顔も見たことのない地元のエース企業の社員さんから祝福の言葉を受けるとは夢にも思わなかった。
明日の新聞に小さな記事が載るのだという。翌日は写真撮影と1時間ほどの取材があるそうだ。何でも今年北海道在住の人で何人か文学賞を受賞したので力を入れるつもりだという。私服の方がいいと思いますよ、とのことだ。
前職は何をされていましたか? と尋ねられ、「オランダでアダルトサイトの仕事してました」と告げると、一拍の間があり、「はぁー、なるほどー、オランダのIT関係の会社ですね?」と返された。確かに、IT関係は幅広い。

電話を切り終えはたと困った。
着るものが何も無いのだ。
スーツケースに詰めて持ち帰った衣類はハーフパンツにボロボロの綿パン、カオサンで買った大量のTシャツ。靴だけはナイキを仕入れていたがほかはどうする?

タンスを漁った。
まったく自分は何をやってきたのだと絶望した。
チェーン付きの原色ロングTシャツにぶかぶかの迷彩パンツ、赤黒チェックのパンクなズボン。ほとんど90キロ時代に買ったイタイ代物だ。あの頃の僕はとりあえず目立てれば何でもイイと思っていた。カレーダイエット(?)に成功し、現在の体重は61キロ。1.5倍の代物を無理やり着るわけにもいかない。

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5年前(いつもパンク)

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NOW(いつもジャージ)


 ようやくマシなボタンシャツと、色あせたジーパンを見つけた。その上にオヤジの3980円の黒いジャケットを着てどうにか見栄えが良くなった。

美容院に行った。床屋に行ってほっぺたのヒゲも剃ってもらった。
家に帰ると母ちゃんが「鼻の下のヒゲは剃った方がいいんでないかい?」と言ってきた。「ヒゲが重要なんだ」と僕は返した。

母ちゃん携帯にいつもの「帰宅」メールが届く。あと1時間もすればおやじが帰ってくる。既に受賞の知らせは伝わっているらしい。
喜びに浸りながらテレビを見ていると、突然母ちゃんが口を開いた。
「健太に見せたいものがあるんだけど」
促されるまま二階の主寝室に行った。母ちゃんが納戸を開け、アマゾンのダンボール箱を取り出した。

アマゾン……。
嫌な予感がした。

なかにはやはり、高崎ケン氏の本が詰まっていた。

『ホスト裏物語』『ザ・ドロップアウト』『アムステルダム裏の歩き方』『正社員からの転落』単行本に文庫、全部2冊ずつある。自分たちと兄貴の分のようだ。
バレてたのか……。

きっかけは出版社から届いた源泉徴収の入った封筒だった。間違って開けてしまったのだという。今年の1月ごろのようだ。
同じ頃、僕は母ちゃんに通帳の記帳を依頼していた。貯金残高が知りたかったのだ。もちろんそこには時折入る数万単位の印税も刻まれている。バレる可能性はあった。だが僕の書いた原稿を「読まないことにしている」そう語っていた彼女なら、大丈夫じゃないか、そんな風に思っていた。

ある時電話をした際、「貯金が思ったより減ってなかったけど、副収入があるようだね」と言われた。バレたかと思ったが、刻まれているのは小さなカタカナ文字だ。僕は時々出版社から校正のバイトが入ると適当なウソをついた。母ちゃんは「ああそうかい」とそれで納得しているようだった。
 実際はその収入から、高崎ケン=又井健太という図式が家族たちの間には出来上がっていたらしい。

「読んだの?」僕は訊いた。
「お父さんだけ全部読んだ」母ちゃんは言った。「兄ちゃんは健太が読んでいいって言ってくれたら読むって言ってたけど、お母さんはまだいいかな」
本来本を出したなら喜ばしいことなのに、なぜ次男坊がひたすら隠しているのか?

その理由は彼らも気づいていたらしい。
僕は自分の体験を簡単に語った。水商売やAV、アダルトサイトで働いていたことを言った。最後に、人を騙すような仕事だけはしていないと付け加えた。

アナルファックの話はもちろん隠した。

「お母さんはね」母ちゃんが言った。「なんか、自分の子供がプロレスに出るのを見に行くみたいで、怖くてなかを開けないの。けど、健太がそういう過去を乗り越えて元気になったので安心したわ」

彼女が笑った。

病んでいた時代には親にも随分心配をかけた。
あの頃の僕は、色々な知り合いに時間を問わず、電話をかけまくっていた。女が捕まらなければ同じように病んでいる男だ。気持ちを紛らわせたかった。不安でいるのは一人じゃないと安心したかった。自分に余裕がないので他人のことばかり気になっていた。
病んでる人ほど人にすがる。だがそれでは根本的な解決にならない。そんなことを知ったのは、だいぶ経ってからのことだ。

合法ドラッグを鼻から吸いこみ、電車内で見知らぬおばさんに向かっておかしな言葉を言ったこともある。隣の席に座っていた友人には迷惑をかけた。

飲み会のあと、駅の切符売り場で「どなたか百円くださーい!」と一人叫び続けたこともある。金はある。確か五千円札が一枚で崩したくなかった。だが、本当の理由は誰でもいいのでかまって欲しかったのだ。5分後……チャリン、僕の足元に百円玉が転がった。投げてくれた人は僕の顔を見ぬまま改札を潜り抜けていく。

完璧にヤバイ人だった。

この時の僕の状態を分析すると、恐らくは自己愛性人格障害と軽度の躁鬱病ではなかったのかと思う。前者は自分を偉大で特別な存在だと思い込み、うまくいかないと自殺したり、自分勝手に他人に救いを求めたりするのだ。
僕はこの頃友達に「甘えている」とよく言われたが、自分がいろんな人に甘えているという事実に気づいていなかった。

社会という名のサッカーグラウンド。ユニフォームを着てフィールドに出たものの、ゴールがどこにあるのかわからなかった。毎日毎日、ボールを回されても、明後日の方向に思い切り蹴り上げているだけだった。今も大いに他人に甘えているが、少なくともそれを自覚することはできる。当面のゴールも見つかった。

病める時代はサイクロンのように僕の内側を通り過ぎていった。
自分から人を求めなくなった。すると、回りがどんどん寄ってくるようになった。奇をてらっているわけではない。それでも人と違うことをしている人は、何かと注目されるらしい。果たして世界に「机探しの旅」をした人は何人いるのだろう? 今回の旅でもたくさんの友達が遊びに来てくれた。色々なものをくれた。感謝している。
 
無事取材が終わった翌日の晩、おやじのおごりでつぼ八に行った。
賑やかな宴だった。
これまでの仕事などを喋った。親は笑ってくれた。それでも僕はオヤジに本の感想を訊けなかった。「プライド破壊」のために、ゲロ塗れのAV女優の口にイチモツを突っ込むも、まるで自分の世界観は変らず、「ただ気持ちいいだけだった」そう語る高崎ケン氏への感想など、どうして聞けよう。

それでもホッとした。迷いがなくなった。
いつだったか、潜在意識君だか意識君が言っていた「大丈夫だよ」の言葉は本物だった。

人生で抱く心配なんて、杞憂に終わることが圧倒的に多いのだ。

友達との酒もイイが親との酒もまたイイ。
その日は珍しく記憶が飛ばなかった。

翌朝、新聞に僕の本名とコメントが載った。小さな記事だ。
ところが朝から引っ切り無しに電話がかかってくる。珍しい苗字だからだ。
 なぜか団地時代のおばさんが多かった。
「あのお母さんがいないといつもベソかいてた健太君がね~」
「あのいつも靴の右と左間違えて履いてた健太君がねー」

もうベソはかかなくなった。靴の左右の区別もつくようになった。
ただしTシャツや靴下裏返しは今でもしょっちゅうある。ベルトの付け方も最近までよくわからなかった。

自分のなかで、変らないものと変ったものがある。
一番大きく変ったものは考え方だ。
よく、二十歳までにできた人格は変らないという話があるがそんなのウソだ。

僕は中学から25まで、頻繁に自殺願望を抱いていた。高校時代の彼女とのデート、国際交流でアメリカへ行った10日間、それから大学入学後の魔法の二年間を除いては、ずっとネガティブだった。桜並木を見てスキップする人の心境が理解できなかった。いつも元気な人がうらやましかった。絶対にポジティブな人間になれないという自信があった。

ロンドンで無一文になった。やりたいことを見つけた。少しずつだが行動を積み重ねた。その結果、今となってはネガティブだった頃の自分が理解できない。

同じ悩みを延々ループで考えこんでしまうネガティ部所属の人がいる。嫉妬や批判、他人との比較、自己嫌悪、完璧主義。

全部癖だ。

考えすぎの人は意識のジャンクションが渋滞しているのだ。どろどろのコールタールや砂砂利を積んだトラックが、いつもひっきりなしに蠢いている。交通整理は潜在意識君に任せよう。要するに、何も考えない練習だ。

人は悩みがあると意識の絵の具で次々にいろんな色に上塗りし、どうにか落ち着こうとする。だが本当に重要なのは、自分にとって嫌な感情をなるべく考えない癖をつけることだ。
病んでしまう原因は考え方の癖なのだ。

瞑想をやり、すべては自分が作り出していることがよくわかった。地獄の正体は全て自分。だからといって、どうしてこんな風に生まれたのだと、自分を憎んではいけない。
酒やアートで気を紛らわせるのもいいが、少しずつでも、能動的な活動を続けること。

毎日感謝できることを見つけること。イヤな気持ちは翌朝には忘れるような癖をつけること。
自分をできるだけ気持ちのいい状態にしておくと、不思議といいこと、いい人が寄って来る。僕は人生は行動が全てだと思っていたが、行動にポジティブな感情が加わると爆発的エネルギーを引き起こす。ゴアで身を持って知ったことだが、人間の頭からは明らかに目に見えない「気」のようなものが出ているのだ。

僕の経験ではこんなことがある。
最初のホスト本を出した時の担当者は、僕が出版社に企画書を送る前に知り合っていた。その半年前、プロフを見て面白そうな人だと思った。ミクシィメールを送ると、返事を頂いてマイミクになった。もちろん出版社の人であることは知らなかった。先方は気づいていたようで、実際にその人に会った際、その旨告げられて驚いた。

二冊目の出版社の人にも面白い縁があった。

大学時代にタイのアユタヤへ行った際、非常に印象的な30代の男性に出会った。「日本タイ友好の店」と書かれた日本食屋のオーナーだ。メニューは三品しかないが醤油ラーメンが猛烈に美味い。二郎(注:慶応大学の隣にある店)風味だ。
訊けばやはり慶応の先輩だった。大手広告代理店を退社し、大好きなタイで仕事を始めたそうだ。代理店の仕事も面白かったようで「サラリーマンになるならもう一度あの会社に入りたい」とも語っていた。

その前はプロ野球選手を目指していたそうだ。大学の野球部は一年生しか入部できないのでそのためにわざわざ留年したのだという。そんな情熱があったのに、店のなかはなぜかサッカーグッズだらけだ。

彼にはタイ人の彼女がいたが、知り合ったきっかけも変わっていた。ある時、自分の家の2階のベランダに誤って閉じ込められてしまったのだという。鍵を持たぬままドアを閉めてしまって家のなかに入れない。パニックに陥っていると、隣の住人が助けてくれた。それが彼女との出会いだった。

そんな印象的な人と、出版社の人は広告代理店の同期だった。かの日本食屋オーナーは同期一番乗りで会社を辞めたのだという。「サラリーマンになるならもう一度あの会社に入りたい」と言っていたのに……。

不思議な出会いは、全て自分が望むものばかりとは限らない。
僕がオランダで働いていた時、5年ぶりにある男に再会したことがある。それは、以前僕をボコボコに殴ったAV監督だ。
ある日街角でばったり出会うと、向こうの方が気まずそうだった。改めて謝罪を受けた。一時はトラウマとなった男だが、彼と目を合わせて喋れた時、自分も一皮向けたと思った記憶がある。後になって考えれば、これもまたいい経験なのだ。

どこかで、何かが繋がっていく。
できるだけ明るく考えるような癖をつけ、行動を続けていれば、誰でもドリーム大学ポジティブ学部ワンダホー学科への入学が許されるのだ。
だまされたと思って信じてみて欲しい。

人生には、やっても無理なこともあるけれど、「やればできる」ことの方が圧倒的に多い。
もちろん、頑張ってるのになんでいいことが起きないんだあ!!!! と勝手な不満を抱いてはいけない。
自分を甘やかすのではない。自分と仲良くなることが重要なのだ。
頑張ることはそんなに重要ではない。楽しみながら続けることが重要なのだ。

(続く……)