机探しの旅②
旅に出て3ヶ月目、やっとこさ最初の小説が完成した。タイトルは『グッバイマネー!』。面白いかどうかよくわからないが、キャラクターは気に入っている。
すぐに原稿をメールで母ちゃんに送付した。印刷してコンクールに郵送してもらうのだ。
家族は僕が高崎ケンであることを知らない。友人は皆知っているが、絶対にウチの親にはバラさんといてと忠告してある。うちの親は寛容な親だが、黒人のチ×コをしゃぶったり、AV出演した話をどうして公表できようか。心配をかけたくない。
僕はいつか貯金が一千万くらい溜まったら、「昔はこんなこともあった」と語るつもりでいた。そのため、略歴の欄には一丁前に「フリーライター」としながらも、ペンネームではなく、本名で応募していた。母ちゃんは小説は読まないと言っていたが、目にする可能性は十分にある。
続いて書いたのは星座をテーマにしたファンタジー系の作品だ。
4ヶ月もかけて膨大な量を書いたが、ひどい仕上がりだった。5人の登場人物が出てきて、視点がばらばらになりすぎている。
それでも不思議なことに僕は気落ちしなかった。
いい失敗作だ。
この失敗をしたことで、次に同じ失敗をしなくて済むのだ。
あっという間に7ヶ月が過ぎたが、毎日酒とタバコを呑んでも驚くほど金が減らない。月の生活費は家賃含め5万円ほどだろう。
観光名所にも興味はない。宿から徒歩10分の王宮広場にも出国直前まで行かなかった。
こんな風な書き方をすると、僕が文章ばかり書いていたと思われるがそんな風でもない。ほぼ毎日、マイペースで少しずつ書くようにはしていたが、実際のところだらだらとマスを掻いている時間の方が長かった。
娯楽は本と動画だ。その昔の同居人が僕のHDDを勝手に使用し、たんまりとバラエティ動画を落としていたのが3年後の今になって役立った。
三十路の誕生日もロウソクの一本立った室内で一人きりのバースデイだ。動画があるので淋しくはない。
ドラマと映画も少し入っていた。僕はこれまで「俳優の演技のうまさ」というものがよくわからなかった。明らかな大根はわかるが、洋画の俳優は似ている顔があると混乱する。それでも色々見ているうちに、深津絵里と上野樹里は圧倒的に演技がうまいことがわかった。
1日10時間くらいは眠っていた。20時間眠ったこともある。それでも大量に時間が余る。無職は素晴らしい。
だが、小説を書くことが楽しいわけでもなかった。かといって苦痛でもなかった。
転機はインドのゴアだった。
この頃から何故か書くことがまた楽しくなり始めていた。その気持ちはこれを書いてる今でも続いている。文章を書くことは僕に取って究極の脳内遊びだと気がついた。映画や写真は金がかかるが、執筆はパソコン一台あればどこでもできるリーズナブルな遊びなのだ。自分ひとりでも楽しめたので勝ちだと思った。何に勝っているのかはよくわからないが、一生支えてくれる杖を見つけたような気分だ。
世の中には3年続けてみろという言葉があるが、これは一理あるように思う。会社を3年続けろという意味ではない。数ヶ月で退職し、ノウハウだけ盗んで事業を起し、成功するような人もたくさんいる。
自分が見つけた好きなこと、やりたいことを3年続けていると、また別の面白さがわかってくるという意味なのだ。
その頃の僕も書くのを始めておよそ3年が経過していた。
一目ぼれした彼女=物書き=文子(ブンコ)。夢中でセックスしていた出会い始めはよかったが、その後オランダに行き、倦怠期を迎えた。息詰まって別れようと思ったこともあるが、ずるずる付き合っている内に、文子のフェ×テクと手料理が上達してきたのかもしれない。
執筆環境はまたしても「独房」だ。4畳ほどの部屋に粗末なベッドと極小サイズの扇風機。ゴキはいないがアリがウザい。ベッドで寝ていると、獰猛なアリに頻繁に肌を噛まれた。
天井が異様に低く、波型トタンの屋根と壁の合間には大きな隙間がある。そこからヤモリ君が頻繁に入ってきた。壁にピタリと張り付き彼は微動だにしない。バチンと手を鳴らしてみると、するすると壁を徘徊し、また落ち着く位置で静止する。一体何がしたいのかよくわからない。二次元空間だけで十分生きられそうな生き物なのだ。
屋根の上には時々ウルサイヤツが遊びに来た。彼と初めて出会った日のことをよく覚えている。
ベッドで寝ているとなにやら頭上が騒がしい。プレハブ屋根からダンダンとものすごい音が聞こえてくる。外に出てみると、猿が飛び跳ねていた。噛まれると5回は病院に行かねばならないのですぐに部屋に戻る。日当たりがいいのかなんなのか、彼はよく屋根の上のフリーダンスを楽しんでいた。パーティーに行くつもりはないらしい。
そんな動物たちも友達だったが、ゴアではたくさんの人間の友達ができた。
無人島に行っても生活できそうな人ばかりだった。
料理に手芸に楽器にダンス。
「生きること」そのものを楽しんでいる人たちだった。アーティストも多かった。たくさんの刺激を受けた。
昼間書き、夜はパーティーという贅沢な日々だった。
頼むから目の前で10分以上もぶちゅぶちゅやらんでくれ
※写真の一部は、友達のナル君のものです。ありがとう!
パーティーの無い日にはビールを持って徒歩5分の友達の家に遊びに行った。
街灯も何もない、真っ暗な道。教会周辺では獰猛な野犬の群れが網を張っている。『銀牙流れ星銀』の世界だ。悪い目をした犬たちが吼えまくっている。つかつかと早歩きをし、なんとかその合間を潜りぬける。走ると確実に追いかけてくるのだ。
友達の家では、おとなしいと評判の野良ネコに手を噛まれた。僕はヤモリくらいしか仲良くできない生き物らしい。
ある時カラングートビーチにある日本食料理屋に行った。オーナーのさっちゃんの作る醤油ラーメンが最高に美味かった。麺はインスタントを使用しているが、醤油スープにはゴマ油が入っていてパンチがある。山盛りのネギ。チャーシュー代わりのベーコンが小憎い。今のところ僕が食べたインスタントラーメンのチャンプだ。
そしてカオサンと同じくこのヒッピーの聖地でも僕はめでたく失態を犯した。
以前にも書いたが、泥酔してピザレストランから3Mほど下の岩礁ビーチに転げ落ちてしまったのだ。
事故現場
空を舞う間は完全に記憶をなくしていた。気が付くとインド人に身体を支えられ、女の子のバイクの後ろに乗せてもらってどうにか帰宅した。
翌日目を覚ますと、ベッドから起き上がれない。背中の打ち身が激しい。朝起きるだけでこんなに筋力を使うのかと驚いた。頭にも傷があり、やがてカサブタが取れると1円玉サイズのハゲができた。三十路の記念スタンプだ。その前日、友達と「ライクアローリングストーンっていい言葉だよねぇ」と話していたので妙な気分だった。
ゴアでは僕の人生観を変える体験もした。ここでは書けない不思議な体験がたくさんある。その物語はまた別の時に語ることにしよう。
その後僕はヒンドゥー教の聖地ハンピに一ヶ月滞在。あたり一面に巨岩がゴロゴロ転がった面白い街だ。
気温40度。暑い。
ある時このあたりにドラゴンボールが隠されているという噂を聞いた。遺跡を少し探してみたが見つからなかった。
ある日本人ツーリストが、やがて生まれ来る子供のために、世界の7箇所にドンキで買ったボールを隠したのだという。いつの日か神龍が飛翔するのを願っている。
再びネパールに渡り、またまたカトマンズに5ヶ月滞在した。
31になった。また一人きりの誕生会だ。ロウソクを灯して動画鑑賞する。
時にはドラマのエキストラの動きだけに注目するという、ジャンキー的視点で見ることもある。いくら日本社会でもあんなにお辞儀が繰り返されるわけがない。空いたスペースには何かをぶっこんでおきたいという意図が感じられる。まるでロボットだ。
ゴア歴10年のジャンキーは、大体毎日オムツを履いてテレビを見ることが多いと言っていた。ジャンキーさんは基本的にテレビっ子なのだ。ある歌手が「駅伝であきらめの決断をする選手の表情が面白い」と言っていたが、これもジャンキー的視点だ。僕はジャンキーではないがアル中に近い。なのでウルトラクイズの「わかったぁーーー!」という解答者の表情が好きだったりする。
インドに戻り、デリーのゴキブリ宿で一ヶ月、ヨガの街リシケシで一ヶ月。
聖地リシケシ
瞑想はやったが、ヨガは1時間半のコースを一回しかやっていない。寒風吹きすさぶ11月。ちょうどお祭りシーズンであちこちで爆竹が響いていた。部屋にこもっていると、フィルターまで焼けたタバコから懐かしい花火の香りがした。ホットシャワーはないが水道の蛇口から熱湯は出る。バケツに溜めて体に浴びるのが至福のひと時だ。この街では赤いワンピースを着た女が牛に追い回されるのを目撃した。
その後僕はまたゴアに行った。
去年知り合った友人たちと、パーティー生活を満喫した。「ケンちゃんやばいよ、白人より顔白いぜ」と笑われた。出歩くのは夜が中心だったし、お肌が弱いのでUVクリームを塗っている。ヒッピー村のチャポラで僕はかなり怪しい存在だったに違いない。日本人がさほど多くはないのですぐに顔を覚えられた。
天井の高い家。快適だった。
家の前の沼。豚に孔雀にカワセミ。いろんな動物が遊びに来る。
村にはまったく関係ないが、レストランのスパゲッティにハマった。味はトマトソースとホワイトソースばかりなのですぐに飽きる。それでも食べる作業そのものが楽しかった。スプーンを使ってスパッゲッティをぐるぐるフォークに絡めるのだ。それまで僕はスパッゲッティの食べ方がよくわからなかった。どうしてみんな、あんなに綺麗に食べられるのだろうと不思議に思っていた。
光や煙、ホコリにもハマった。
暗闇のなかでペンライトをつけ、タバコの煙を観察するのが面白かった。
部屋の天窓から射しこむ日の光。その帯のなか、くるくると舞うほこりが綺麗だった。ぶつかったり踊ったり、くっついたり離れたりして、やがて見えなくなる。世界の縮小版のように思えた。
日本から友達が遊びに来た。エロ動画の差し入れをしてくれた。全部で20枚。真っ白なディスクに「和10」「洋5」などとマジックで書かれている。わかりやすくて助かった。彼は、毎度僕の本が出版される度に10冊も買ってくれる。素晴らしく優しい人だ。
そしてこの村でも僕は何度か失態を犯した。いつものように泥酔して路上で寝てしまうのだが、近くに神聖な木があるせいか、何も盗まれなかった。壁にもたれかかり、立ったまま眠っていた時には度肝を抜いた。
パーティー風景。深い酔いから記憶が戻り、いきなり友達ができていることもあった。泥酔してない限り、外人の女とは仲良くなれない。
そうして季節は2011年3月を迎えていた。当初決めていた2年はまもなく経過しようとしている。
この時点で書いた小説の数は長編七本、テレビドラマ用のシナリオが四本、映画シナリオが一本。最初に書いた『グッバイマネー!』は既に2度のコンクールで落ちていた。成果はテレビドラマのシナリオが一本、二次予選までいっただけで、あとは一次も通らない。結果は出なかったが、焦ってもいなかった。気長に待てばそのうち成果は出るだろう。
直木賞作家の浅田次郎氏は13歳から書き続け、40歳でデビューした。宗田理氏が『ぼくらの七日間戦争』を発表したのは50代後半。歴史小説家の加藤廣氏は75歳でデビューしている。
大好きな彼女の文子を嫌いになってはいけない。文子が老いることは決してない。
テレビAD時代の方が100万倍キツかった。中学時代は1000万倍キツかった。
思いのほか印税が入ったので、秋くらいまではネパールに籠もって書こうと思っていた。
そうして僕は首都デリーに飛んだ。目指すは安宿街のメインバザールだ。
デリーの安宿街、メインバザール
ところが愛用のパソコンがいきなり壊れてしまった。大好きな彼女と脳内セックスすることができなくなった。不思議なことにその日パソコンを起動する前に、コイツが壊れたらピンチだなと妙なことを考えていた。
日系の会社に修理に出して一度は直ったものの、すぐにまた起動しなくなった。実家に連絡してパソコンを送ってもらおうかと思ったが関税がむちゃくちゃかかる。あきらめきれずにもう一度修理に出した。ダメなら一番安いのを買おうと思っていた。
はて……困った。
パソコンがないとやることが一気に減る。こんな時こそ酒だと思い、久しぶりに飲みに行くことにした。
日本人の溜まり場へ行くと、気の合う野郎二人と出会った。しこたま酒を飲んで楽しい話をした。面白そうなスポットの情報も得られた。やはり、ピンチのあとには素敵なチャンスが待っているのだ。パソコンが壊れていなかったら彼らとも出会わなかっただろうと妙な喜びを覚える。いや、元々そんな風に思いたかったから飲みに行ったのだ。
翌日。
修理業者からパソコンが直ったと連絡が来た。その日は閉店間際だったので翌日取りに行くことにした。母ちゃんにその旨伝えようかと思っていたところ、いきなり電話が来た。
「角川の小説コンクールで最終候補の4人に残ったよ!」
体全体がメロンフロートの気分だ。爪先から頭のてっぺんまで駆け抜けるパンチの効いた炭酸。アイスクリームな僕の脳みそがふわふわと宙に浮かんでいる。
強力な何かに、引き寄せられるような感覚だった。
自分が当初定めていた2年。ドンピシャのタイミングでこんなことが起きていいのだろうか? いや……まだ受かったわけじゃないし……ここまで来て落ちたら……ヤだな。
そんな風に考えてはみたものの、多少の自信はついた。角川春樹様、並びに事務所スタッフの方々に深々と感謝を捧げた。僕は絵葉書に「高崎ケン」であることを書き、デリーから事務所へと郵送した。
そして翌日、3月11日。
日本列島を震撼させたあの巨大地震が起きたのだ。
パソコンの修理業者に取りに行く連絡をした際、地震のことを告げられた。
実家に電話を入れるが繋がらない。メールを打っても返信が来ない。オヤジの携帯はこんな時でもhotmailセキュリティ拒否だ。ネットを見るがよくわからない。色々キーワードを変えて検索してもロクな情報が出てこない。防災グッズの宣伝ばかりで腹が立った。
ミクシィボイスで呟くと、たくさんのマイミクさんから北海道、並びに兄のいる川崎は大丈夫だと情報が入った。有り難かった。それでも相変わらず親や兄からメール返信が来ない。本当に大丈夫なのか?
そんな不安を抱きながらもパソコンを取りに行くことにした。
その道中、昨晩出会った若者のことを思い出した。明日ご飯でも一緒に食べようと言っていた男の子だ。
その彼は仙台出身だった。
携帯で一報を伝えると、寝耳に水だったようだ。彼はすぐに帰国に向けて動き始めたので食事会は流れてしまった。後日連絡を取ったところ、ご家族は全員無事だったそうだ。というわけでマイミクのY君、いつか一緒に飲みましょう。
二日後、家族との連絡がついて一安心した。
そして僕はデリーから山麓のマナリに向かった。
想像以上にデカイ山があたりにそびえ、猛烈なパワーを感じる村だった。
山頂には白々と雪が積もり、日の光でキラキラ輝いている。泊まった宿には日本人女性が一人、彼女もまた仙台出身であることに驚いた。家屋は滅茶苦茶になったが、こちらもご家族は無事らしい。
寒かったので部屋にこもって「ファッションTV」ばかり見た。地震のニュースは激しく気が滅入る。モデルはマリリンマンソンを彷彿させるガリガリさだ。乳首に気をとられて服がよく見えない。キャットウォークの先端でTAOがポーズをキメる時の目が最高にカッコ良かった。
http://www.youtube.com/watch?v=gA3W_7JQTZY
一ヶ月の山篭りのあと、僕はネパールのポカラに飛んだ。
ポカラの子供たち
山の後にはまた山。ヒマラヤの見えるバルコニー付きの宿だ。
真夜中の室内に羽虫が飛び込んだ。光のなかで死んでゆく虫、最後は光を見たかったのか? 夜に鳴く鳥、ピーチュチュチュ。夜になっても歌いたいのか?
ロケーションは抜群だったが、ここでちょっとした問題が生じた。
一日14時間の計画停電なのだ。
これまでは4時間~8時間ほどだったが、時期が悪かったらしい。
ラップトップのバッテリはフル充電しても2時間も持たない。
ホテルスタッフに計画停電のシフト表をもらったが、曜日によって電気の使える時間帯はバラバラだ。月曜日は11時~15時と23時~26時。木曜日は16時~20時、27時~8時……どんな時間帯じゃ!
そのため、停電中はネットカフェで書くことになるのだが、23時には閉まってしまう。
なるべく家で書きたかったので停電表に従って毎日バラバラの時間に起きることになった。
最初は不便な生活かと思っていたがそうでもなかった。
思わぬ喜びもある。予定時間より早く電気が流れる時だ。このご褒美は嬉しかった。損しているはずなのに、儲けた気がした。
頑張れ電気、頑張れ電気。
そんな風に勝手に応援していたが、たまに裏切られ、予定より早くストップしてしまうこともある。
蛇口をひねってもまるで水が出ないこともあった。そんな時はミネラルウォーターで贅沢な洗顔を堪能した。
さっき、テレビで「節電対策」の特集をやっていた。どうせアピールするなら、どうでもいい熟女女優のしわを幻に変える照明を失くすべきだ。ロケ中継の度に、しわの数が増える芸能人を見ると痛々しい気持ちになってしまう。
本気で節電を訴えるなら、14時間停電でも明るい笑みを浮かべるネパール人の姿を映すべきだ。この国は本気で貧しい。出遅れた国だからだ。文明人はこれを機に、当たり前にある電気ガス水道の有り難味を知るべきだ。発電機が回らないならみんな働かなければいい。それでも仕事は回る。どうにか回る。
ロウソクのある生活は楽しいよ~!
ポカラ滞在期間は一ヶ月強だった。
先ごろ事務所から連絡があり、5月12日に最終結果の通知をするのでその時には日本にいて欲しいというのだ。
帰国してまで、落ちちゃったらどうしよう? そんな不安が頭をよぎる。待たされるのは誰でもイヤなものだ。同じく他の候補者たちも神経をすり減らせているのだろう。
いい結果を期待するとうまくいかない気がした。それでも期待は止められない。親は喜んでいたが、もし受賞できなかったら、僕としては肩身が狭い。胸を張って受賞の喜びを応援してくれている友達にも伝えたい。不安と期待は延々とループする。頼みの潜在意識君も何の反応もしてくれない。「大丈夫だよ」と声が聞こえるような気もするが、これは暴走する意識の言霊ではないのか?
とりとめもない当惑をクロージングさせるため、僕はこんな風に考えることにした。
結果は全て神様に任せるのだ。
受かってもダメでも、必ず自分のいい方向に流れていく。
ここでいう神様とは、絶対的な権力を持つ存在のことではない。
僕にとっての神様とは、自然のことだ。
山だ。海だ。木だ。花だ。
そしてこの世にある、目に見えない、強力なエネルギー。それら全部が僕にとっての神様なのだ。
そんな風に考えると気分が落ち着いてきた。
帰国日を5月11日に定めた。手早くチケットを買い、バンコク経由で帰ることにした。
こうして僕は2年ぶりにバンコクに飛んだ。
カオサンにはKFCができていた。
そびえたつ巨大看板に相変わらずカオサンの空は窮屈そうだ。あちこちから流れるとげとげしい爆音ミュージック。夜中になるとギャアギャア叫ぶ西洋人女たちの歓声。それらは故障寸前のハードディスクの異音を思わせた。完全に容量オーバーなカオサン。それでもこの狭い通りに漂う活気が僕は好きだ。
最後なので、一泊1500円のいいホテルに泊まった。キンキンの冷房もホットシャワーもついている。テレビはあるが冷蔵庫はない。陽気なオカマスタッフの笑顔に癒された。
2年前にも飲んだ友人と、久しぶりの再会を祝してしこたま飲んだ。
そしていつものように泥酔した僕は、この旅一番の失態を犯してしまった。
翌日目覚めると、激しい二日酔いが胃の中を掻き毟った。ベッドから転げ落ちている。記憶はまるでない。財布を確認すると、現金およそ9000円が抜き取られている。カードは無事だ。部屋にはなぜか新品の歯ブラシケースの残骸が転がっていた。浴室には2本歯ブラシがある。そんなことはどうでもいいが、所持していたカバンが見つからない。その時に限ってデジカメと変圧器が入っていたのだ。
さすがに凹んだ。金はどうでもいいが、デジカメにはバックアップの取っていない写真が少し入っている。
その後カオサン近辺で聞き込みを開始した。誰に聞いていいのかわからなかったが、通りを歩いていると、ビール売りの兄ちゃんに笑われた。「昨日はスゲエ酔ってたなぁ~」
聞けば、僕は路上で目覚めたあと、フラフラと起き上がって、その場に転がっていた台車を転がし遊んでいたらしい……頭が痛くなった。
落し物が届いていないかと、ツーリストポリスと警察署を訪れるがもちろんなかった。ツーリストポリスにはビール睡眠薬強盗で色々なくした日本人青年が死にそうな顔を浮かべていた。それでも盗難保険に入っているらしい。僕は盗難保険に入っていないし睡眠薬強盗にも合っていないが、カオサンで二回自爆したと告げた。
警察署ではものすごい剣幕で西洋人おばさんが怒鳴っている。ファックユーだ、シットメンだなんやかや。どうやらホテルスタッフに金を騙し取られたらしい。警察は埴輪のように無反応だ。一通り爆発し終えるとおばさんはあきらめ顔で後ろを振り返り、僕の顔を見た。スッキリしたのかナイスなスマイルを浮かべていた。
結局あきらめ、同じモデルのカメラを購入する頃には僕の気分も晴れていた。アルコール記憶障害にはサフランがいいと知ったので百貨店をチェックしたが高かった。気休めにターメリックカプセルをしこたま買い込んだ。
夜、スクンビット通りの路上占い師に見てもらった。手相とトランプで270円ほど。引いたカードの数字で今後の運勢を占うらしい。何を引いても「ワンダホー!」と言うので気分が良くなる。誰にでも否定的な意見を言わない趣旨なのだろうが、占い師はこうあるべきだ。地獄に落ちるなんて持ってのほか。占いはいいことだけ信じていればOKなのだ。
そんなこんなであっという間に一週間が過ぎた。
続く……