机探しの旅①
一日に何度ありがとうと心のなかで唱えたことだろう。
こんなにドキドキワクワクしたのは高校時代に初めてできた彼女、麗しのMちゃんとデートした日以来なのだ。
そういう気持ちは青春時代にしか経験し得ない財産だと思っていたけど、僕は今年で32。中年になっても同じ思いができる日が時たまあるのだと身を持って理解した。
これを書いてる今はドラゴンボールのエンディングテーマ『ロマンティックあげるよ』をループで聴いている。
ロマンティックあげるよ
http://www.youtube.com/watch?v=9DEZGI2soxg
そう、
不思議したくて、冒険したくて、誰もみんなウズウズしてる♪
大人のふりしてあきらめちゃ、奇跡のなぞなぞ解けないよ♪
もっとワイルドに、もっとたくましく生きてごらん♪
ロマンティックあげるよ♪ ロマンティックあげるよ♪
ほんとの勇気みせてくれたら
ロマンティックあげるよ♪ ロマンティックあげるよ♪
ときめく胸にキラキラ光った夢をあげるよーーーーーーーー♪
人生はまさしくブルマさんの言うとおりだ。
大人のふりも子供のふりもできない僕だが、5月12日、遂に夢の欠片を手にしてしまった。
それでは猛烈に長――――――――――いお話ですが、2年2ヶ月に及ぶ旅のお話を始めたいと思います。
*
話は3年半前、2007年12月にさかのぼる。
僕はオランダのエロサイトの会社で働いていた。
首都アムステルダムに行って初めてした仕事は「パンティの運び屋」だった。同じ部署のMさんに「大事なものを関連会社に運んで欲しい」と言われ、手渡された紙袋には大量のパンティとブラジャーが詰まっている。ユーザー用のプレゼントだという。それを持って路面電車に乗り、バカデカイカップルの愛の語らいや、最後部の席を陣取る不良のIPODから流れるジェイジーを聴いているうちに、自分がなぜオランダに来たのかわからなくなった。
その晩にはアムス市内のレストランバーで新人歓迎会が開かれた。日本人は4分の一くらいだろうか。多国籍な軍団が未来のAVについて語らっている。
メンバーの内、三分の一がゲイだった。深夜の通販番組でエクササイズしているようなスキンヘッドの屈強たちが陽気にツナピザを頬張るのを見ていると、またまた自分がなぜオランダに来たのかわからなくなった。でも、たまらなく愉快だった。
二次会ではカラオケスナックに行った。
日本人駐在員の溜まり場的な店で、スタッフのお姉ちゃんはみんな旅行大好き、ずっと旅を続けていきたいというバックパッカーばかりの店だ。
新人にも関らず、いつものように自分勝手に泥酔した僕はフロアを見渡すステージに上がり、ミスチルの『名も無き詩』を果てしなく熱唱した。そうして歌が終わったあと、場内にいるスーツ軍団に向かってこう叫んでしまった。
「駐在員のみなさまーーーーーー、お疲れさまでっす!!」
席に戻ると、駐在員グループの一人、仕立てのいいスーツを着た中年にいきなり胸をどつかれた。僕の身体はアルコールに覚醒し、たまらなく気持ちが良かったので何が起きたのかわからなかった。
だが、目の前の彼は明らかに目を剥いている。そうして彼は鬼の形相で叫んだ。
「てめえら何者だ? なんの仕事してるんだっ!?」
僕たちの風体は明らかに異彩を放っていた。
上司のDさんはホスト風のイケメン。僕は中途半端な茶髪90キロのデブだ。隣に座る同期は『北の国から』の五郎のような風貌でド派手な緑のコートを着ている。くねくねと身体を動かすオカマちゃんたちもいっぱいいる。
僕は口を濁し、目の前の男をただ苦笑いで見つめるのみだった。
僕たちは世界中に素敵なマ×コやチ×コをばら撒いている。仕事に対して誇りもないが罪悪感もない。それでも、そんなことをエリート軍団に告げてしまっていいのか?
「てめえら何者だ?」男がもう一度言った。
ためらっていると、上司のDさんが相手方のボスに向かって突然叫んだ。
「エロサイトだよーーーーーーーーーーーっ!」
その場の空気が一瞬にして冷え切った。
僕の周囲では束の間大人たちの世界が進行し、やがて駐在員グループは去って行った。
Dさんの横顔がたまらなくカッコ良かった。我らのアニキ、あの時は本当にありがとうございました。
夢のような職場だった。
タイムカードはない。年間有給25日。病欠は有給を使わなくていいのでサボることもできる。だが、サボる必要も無いほど楽しい職場だった。
月曜の昼休みに2時間ビールを飲んで仕事をしても、誰にも文句を言われない。隣の席のHさんは毎日二日酔いで1時間も遅刻する。マリ×ナを決めて赤目のまま働いている元ヒッピーもいる。自分の仕事さえやっていればエブリシングOK。日本企業のように面倒臭いしがらみに縛られることもない。細かく担当が決まっていて、一人一人に責任と権限が与えられているのでやりがいもある。
そんなこんなで一年と数ヵ月後、会社が倒産した。
儲かっていたが倒産した。これには色んな事情とドラマがある。その物語はまた別の時に語ることにしよう。
突然の倒産宣告に職場の面々は一斉に悲嘆にくれた。
不思議なことに僕は平気だった。
その理由を、僕は初め、過去にもっと悲惨な体験をしてきたからだと思った。
僕は愛情たっぷりの親元ですくすく育った。
ところが中学の頃から毎日自殺を考えるようになった。
その理由は「逃げたかった」からだ。
強迫神経症に悩まされていた。
テストでいつもトップを取らねばと焦っていた。テストが終わった日にも勉強していた。高校に比べて中学の勉強ははるかに簡単である。だが、確実に覚えている英単語でも、教科書を閉じた瞬間、忘れたのではないかと不安になってしまう。再び教科書を開き、三色ボールペンで既に脳みそにインプットされた単語を書き連ねる。教科書を閉じ、また開いては書き連ねる。おかげで教科書はカラフルな文字でぐしゃぐしゃだ。
いたちごっこのグラフィティみたいに修正液で白塗りすることはしない。そのため、ただの教科書なのにいつも危ない匂いがしていた。ヤク中が描き殴った抽象画のようなものだ。ノートも同様である。
ある時担任が急遽全員のノートをチェックすることになった。翌日そのハゲ教師はこう告げた。
「みんなのノートを見たけど、いいノートには二種類ある。よく整理されてまとめられているやつ、それからもう一つ、使いこんであるなーってやつ。英単語とか漢字とか、覚えるために何度も書くことがいーんだ」
『使いこんであるノート』が、僕のノートであることはすぐにわかった。
猛烈に恥ずかしかった。
死にたかった。
更にやっかいなのは毎日の荷物チェックだ。
明日の持ち物をを確認するため、カバンから教科書を取り出し、時間割とにらめっこしてはまた元に戻し、そしてまた取り出し時間割をチェックするといった作業を延々ループで繰り返していた。こんなバカなことに無駄な時間を割きたくなかったが止められなかった。
ある時などは、当時好きだった大林素子のバレーの試合を見るため、早めに勉強を切り上げた。そして部屋を出、いざリビングのテレビへと続く階段を下ろうとすると、部屋のなかから不安が漂ってきた。そうしてまたカバンの中身をチェックすること2時間、結局素子の勇姿は拝めなかった。
こんな体験があったことを、随分経ってから親に言ったがまるで気づかなかったそうだ。
当然である。
地獄は自分が勝手に作り出しているものなのだ。
血縁が繋がった者でも見抜けない。
そんなことを思い出してみると、時間割の呪縛から開放された今、僕はただ普通に生きていける。会社の倒産なんてなんでもないことなのだ。
いつものように平然と、ボーッとしている僕に向かって上司のDさんは笑いながらこう言った。
「おまえはまたドロップアウトみたいにネタにすんだろ?」
その通りだ。
でも、僕が平気だった一番の理由は「時間割チェックからの開放」でも、「本のネタ」でもなかった。
倒産が決まったその日、自宅で一人ハイネケンを飲んでいると、心の奥底から不思議な声が聞こえたのだ。
チャンスだ。
メッセージはその五文字だけだ。いつも勝手に暴走している意識の言霊ではない。もっともっと、奥底にある潜在意識、たとえるなら、どこか異世界にいる別の自分が発したような声に思える。
まるで理由はわからない。僕は幽霊も見たことがないし、幻覚や幻聴癖もない。何のチャンスか、なんでチャンスなのかもよくわからない。けれどなんとなく、いい予感がしていた。本当にそんな声が聞こえたのだ。
その頃の僕は『ドロップアウト』を出版し、全てのネタを書き尽くしたところだった。
脳みその井戸を枯れつくした気分だ。
ネタがないなら想像力で書いてみよう。そう思って小説を書き始めた。
ところが僕の想像力は自分で思っていたより貧困だった。
当然である。
僕の読書習慣は小学校の時の『ズッコケ三人組』で終了していた。それから15年間、読んだ小説で記憶にあるのはエンデの『果てしない物語』に『モモ』、椎名誠の『哀愁の町に霧が降るのだ』の三冊のみ。あと数冊読んだ気もするが、両手で数えられてしまうほどだ。映画もそれなりに見ていたが、僕は青春時代の大部分を『桃太郎電鉄』に費やしていた。一人で何度も100年プレイしては、雑魚キャラ相手に強欲に物件を買い占める。生産性のない遊びは頭がトロトロになるのでそれなりに楽しかった。
つらつらと言葉を重ねてみるがまるで物語にならない。「明日はオナニーである」と太郎は言った。「どうせ明後日もオナニーなんだろ?」と次郎は言った。「いいや明後日はオナニーはしない」と太郎は言った。
言った言った言った。
こんなことばかり書いていて楽しくなかった。
ある時書くのにうんざりして、もう無理だと手放したことがある。
ところがあきらめた翌日、何をしていいのかわからなくなった。
書かないことがつらないのではなく、書くことをあきらめたのがつらかった。
いつの頃から、僕はゼロから物を作る仕事がカッコいいと思っていた。世界で一番カッコいい仕事は映画監督だと思っていた。女にモテたかっただけなのかも知れない。遠い昔のガリベンコンプレックスなのかもしれない。よくわからないが何かを表現したかった。だからそういう仕事ばかり選んできた。
映画→テレビ→PV→AV→写真。
全部挫折した。体育会系が性に合わなかった。
CMもやってみたかったが縁がなかった。
昔所属していた映画サークルの人が映画監督になったり、漫画家になったりしていることが悔しかった。嫉妬した。やることなすこと全てうまくいかないので、どうしていいかわからなかった。
放送作家事務所→カラオケビデオ撮影→企業VP企画→旅行ビデオ撮影→UFOキャッチャーの商品企画→ウェブデザイナー。
求人誌を見てクリエイティブかつ、徐々に徐々に、現実的な会社を受けていった。受かった会社もあったがつまらなすぎて一日で辞めた。ウェブデザインはソフトを入手し、自分でやってみたが三日で向かないことがわかった。
人生が長すぎた。さっさと終わらせてしまいたかったが勇気がなかった。
そこで僕はクリエイティブな仕事をあきらめ、女にモテそうな仕事にシフトした。
バーテン→ホスト。
楽しかったが一生やりたいというほどでもなかった。
今度は世の中金だろと、金儲けをたくらんだ。
アフィリエイト→情報商材販売→ドロップシッピング。
アマゾンでその手の本を買いあさってみたが、結局やらなかった。
面倒くさそうだ。そして金だけを求めていくと、打算的な人間関係になりそうで嫌だった。
全てをあきらめ現実的な仕事にシフトすることにした。
コールセンター派遣→出会い系サイトサーバ管理。
職場は過ごしやすく、仲間にも恵まれた。自分は営業は苦手だが、電話は割とこなせることがわかった。とりあえず生きていけると確信を得た。ゲストハウスをやってみたいと思ったこともあったが、情熱を注ぐほどのものではなかった。他にも色々やったがよく覚えていない。わかったことは、どんなに楽な仕事をしても飯を食うためだけの時間の切り売りであり、心は決して満たされないことだ。僕は一生美味しいご飯を食べ、仮に真鍋かをりと付き合えたとしても、満たされない生き物だということがよくわかった。
ご飯も恋愛も、一時的な快楽に過ぎない。子供も安心老後にもまるで興味がない。僕の親友に、親の言いなりで理学療法士になった男がいる。元々欲のない現実的な男だったが仕事は楽しいそうだ。そんな人がうらやましかった。
そんなこんなで最後にたどりついたのが文章だ。
きっかけはロンドンで無一文の頃、友達のおばさんが送ってくれた古本だ。東海林さだおの丸かじりシリーズに、五木博之の『生きるヒント』。
心が楽になった。本にはつまらないものも多いけれど、人の心を揺さぶる名著もあるのだと知った。
登録していただけで何もしていなかったミクシィで文章を書き始めた。
作家になりたい気持ちはまるでなかったけど、暇だったので書いてみた。
楽しかった。
「フリースタイルライフ」というWEBマガジンで書くチャンスも得た。
気が付いたら本を二冊出していた。
そうやって消去法でたどり着いた「書くこと」をあきらめてしまったら、僕の人生は壊滅してしまう。
枯れた脳みそを振り絞り、断念した小説をなんとか最後まで書いてみた。
最悪の出来だった。
読んでいても暗くなるだけで、面白くもなんともない。
後半部分はほとんどやっつけだ。
師匠である作家さんに悩みを打ち明けると、「小説は根性だ」と明快なアドバイスを受けた。
でももう疲れた。
根性なんて、僕にまだ残っているのだろうか?
僕は左腕にうっすら残る白い筋を見た。
病んでいた頃、カッターで引っかいた二本の傷。
ひとつは女にフラれた時のもの。もうひとつは、友人に頼まれた映像作品をやっつけで仕上げた時の跡だ。
5分ほどのミュージッククリップのようなものだが、出来上がった映像を友達に見せた時に酷評された。もちろんボツだ。自分でも最悪だと重々わかっていた。こんなものは二度と作りたくないと思い、マーキングの意味で印をつけた。
なのにまた、同じことをやってしまった……。
嗚呼……どうすればいいんだ?
夢をあきらめちまうか?
そんな時に会社倒産。
僕は何が書きたいのかわからなかったし、どうやって小説を書いていいのかもわからなかった。
それでも潜在意識君の言葉は僕の不安を払拭するのに十分だった。
チャンスだ。多分、始まりのタイミングなのだろう。
ロンドンで無一文になった時もそうだった。
3ヶ月でイギリスを去った。日本に帰り、2年間の会社員生活を送ったが完全に躁状態だった。満員電車に乗っているだけでも楽しかった。ぎゅうぎゅう詰めの車内、まったく関係のない金八の説教を聞いてみるのも楽しかった。文章を書き始めたのもその頃からだ。暴走する意識の言霊をマイクロソフトワードに吐き出すと、不思議と気分が楽になった。
ピンチのあとには確実にチャンスが待っている。
そんな法則をその時知った。
少しは蓄えもできた。身体も随分身軽になった。
食に欲がないのが幸いし、辛ラーメンとそばばかり食べ、一年で20キロの減量に成功した。オランダにはダイエットのために来たのかもしれない。ご飯がマズイ国でよかった。
書くための時間が欲しいと思っていた。
かといって実家に引きこもるのは後ろめたい。
ならば物価の安い国で、のんびりと小説でも書いてみようか?
色々調べるとインドとネパールは観光ビザでそれぞれ6ヶ月、5ヶ月まで滞在できる。自由を手にする無限ループゾーンだ。これらの国へはダイレクトで行くより、バンコク経由が安い。
タイ、ネパール、インド。
全部行ったことのある国であまり魅力はなかった。それでも何かはあるに違いない。
よっしゃ! 旅に出よう!
*
小さなラップトップに文庫本と大量のエロ動画。それらをスーツケースに詰め、2009年3月、僕はバンコクに飛んだ。
まずは書くための机を探さねばならない。
バックパッカーの集まるカオサン近辺を回ったが、一泊250バーツ(約675円)以内の安宿にはなかなか見つからない。
旅の資金は限られている。およそ200万。エアチケットやビザ代などを差っぴき、一月7万円ほどで生活したとして、2年は持つだろうか?
2年後の、2011年3月頃には日本に帰っているのだろうか? それまでには納得のいく作品を一つでも書き上げたい。小さなコンクールでもいいから賞が欲しい。そんな風に思っていた。
ようやく机を見つけたのはSというホテルだった。
トイレと冷水シャワーの同居した6畳ほどの部屋だ。粗末なシングルベッドに机と椅子が一つ。天井には小さな扇風機がついているが、角度調整は不可能。眠る時はわずかなそよ風を体感できるが、机のある位置まで風は届かない。フロントから枕を二つ借り、硬いプラスチック椅子の背もたれにもたせかけた。尻の下にも敷いていよいよ執筆開始である。
楽しかったゲストハウス生活をテーマにした物語を書こうと考えていた。
事前に一人で舞台となる東京の下町、新小岩を巡り、イメージを膨らませるために色々な風景を写真に収めていた。平日の昼間からデジカメを抱えていると、不審者と思われることがある。エロ本自動販売機がずらりと並んだプレハブ小屋で写真を撮っていると、「すぐに出て行きなさい!」天井スピーカーから声がしてビックリした。
ぼんやりと写真を眺め、アイディアを練っていると、あっという間に30分が経過した。身体がじとじと汗ばんでくる。摂氏35度。トランクス一丁でも暑い。暑すぎる。
仕方がないので冷水シャワーを浴びると一時的に涼しくなった。
再び作業を続けるが、今度は排水溝からゴキブリが飛び出してくる。おまけに蚊。
友達は傍らに佇む馬の絵の入った瓶ビールだけだ。激しくぬるく、激しくマズイ。
それでも出会いの街カオサン。二ヶ月もいれば何かと知り合いはできるもの。調子に乗って酒を飲みまくった帰り道、通り沿いで爆睡している間に一万円のキャッシュを盗まれたこともある。まっ……安いもんだ。
後日現地で知り合った日本人が部屋に遊びにきたが、「独房…」と絶句された。
そうして観光ビザ最長期間の二ヶ月はあっという間に過ぎた。
続いて僕はネパールの首都、カトマンズへ飛んだ。
バックパッカーの集うタメル地区は、幅狭の通り沿いに5階建てほどの建物が連なり、屋上は大体ルーフトップレストランになっていた。排気ガスの香りに渋滞だらけの車の波。あちこちに、西洋人好みのサンドイッチやファーストフード店がごちゃごちゃ犇いている。たっぷりとコレステロールの詰まった毛細血管みたいな街だ。
道のあちこちでシンナーを吸うストリートチルドレンを見た。孤児院を抜け出し、自由を求めにやって来たボーイたち。荷運びやゴミ漁りなどの仕事をしてどうにか食いつないでいる。年は小学生から高校生くらいまで様々。みな当たり前のようにアルミ袋を口元にあて、ふごふごやってる。シンナーより、そころじゅうに生えているマリ×ナにしとけと言いたい。
観光業に力を入れているこの国で机を見つけるのは容易だった。安ホテルでも調度品は驚くほど充実しているのだ。
気候は涼しく、作業ははかどった。一日4時間ほどの計画停電があるが、ロウソクを点せば問題ない。風呂トイレが別にある部屋で、バスタオル一枚を腰に巻いて廊下に出て、よく掃除のおばちゃんに笑われた。友達はシャワールームで化石のように固まったゴキブリ君だけだ。
朝一で浴びるホットシャワーが気持ちよかった。窓から注ぐ冷風が頬を射し、まるで雪見風呂にでも浸かった気分なのだ。
『アムステルダム裏の歩き方』の執筆もここでやった。
後々この本の読者からメールが来た。成田空港でこの本が店長のオススメになっているらしい。嬉しかった。こんな本をオススメしてくれた店長の人柄に敬意を表した。ネットを中心にひたひたと売れ、増刷もかかった。
(続く…)