一杯のラーメンと金

2009年10月12日

酩酊状態失礼。丑三つ時のかなり暑苦しい文章なのでスルーを。

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近所のラーメン屋に行った。
そこは自分の中で新小岩のベスト3に入るラーメン屋だったが、
1年ぶりに訪れてみるとオーナーは代わり、スープは業務用の
醤油スープに、麺は何の変哲もない中太麺へと
変貌していた。


がっかりした。


店主のラーメンに対するこだわりは微塵も感じられない。
かといって、屋台ラーメンのように飲んだ後に食えばいいんだー的な
開き直りさも感じられない。実に中途半端だ。
ラーメンには好みもあるだろう。
だが、その店主の味には何のこだわりも見られない。
まずくともそれなりのオリジナリティがあればいいと思う。
だがそれがない。僕の中で憤りを感じたが文句は言えなかった。
なぜならラーメンの値段が500円だったからだ。


僕は先日地元札幌に帰省した。
街中にあるJという人気ラーメン店で味噌ラーメンを食した。
めちゃくちゃ美味かったが、値段は800円。
麺もスープも具も何の不満もないのだが、
観光客が終始途絶えず、一杯800円でもやっていけるんだと
いうその店の見え見えの営利主義がなんとなく鼻に付いた。
それは僕にラーメンは庶民の食い物であり、高価な具材でも
使わない限り値段はせいぜい一杯650円以内に収めるべきだと
いう価値観があるからだ。


ラーメン二郎三田本店はテラ盛りで500円。蒲田の人気店上限の月は550円。美味くて量もあるのだが、そんなに値段を下げて大丈夫なの!?
と思ってしまう。その反面店主のラーメンに対する愛着を感じる。
客足は途絶えず儲けようと思えばもっと儲けられるの
だろうが、何もそこまで無理しなくともいいだろと思えるほど徹底的に
価格を下げるスタンスは驚異的だ。


一杯のラーメンの値段で金とはなんぞやを考えた。


金って複雑なものだと思う。
一人身ならなければないで何とかやっていけるが、
結婚して子供がいたらそうもいかないものなんだろう。


金があれば何でも手に入る。ヒルズに住めていい女も抱ける。
ホリエモンもそう言っていた。今の世の中その通りだと思う。
それが幸せかどうかは個人の価値観に起因する。
金持ちの大半は日サロに行ってブランドもののスーツを着て
合コンに明け暮れる。その楽しみ方は画一的で味気ないように
個人的には思う。だが、中には世のためヒトのために
いい行いをしながら金を得ているヒトもいる。
良心があり金を求める人々はそういったものを求む。だが、そうした
金の稼ぎ方は一筋縄ではいかない。求めずとも、後から
金が付いてきたヒトが多いからだ。しかもそういう
ヒトたちはほんの一握りだ。だから大抵
の場合そういうスタンスを求めてもうまくはいかない。


金を求めるとヒトによっては、うまくいかないことが理由で
精神を病むヒトもいる。そして中には一線を踏み越えてしまうヒトもいる。安易な金の求め方、いわゆる詐欺に走るのだ。


「騙された方が悪いんだ」


詐欺師の中にはそういう人もいる。だが、僕は騙すヒト
の方が確実に悪いと思う。そういう人に限ってちっぽけ
な良心があるように思う。そんなヒトは本来詐欺師に
なるべきではない。サイコパスとは違うのだ。
不況の時代、今の法律が詐欺を取り締まりづらい環境に
ある中、詐欺師は今後も増え続けていくだろう。
それが安易に金を儲けられる方法だからだ。
それは「女優になりたい」という女性がAV女優になって
自己顕示欲を満たすのと本質的には同じように思う。
楽な方へ楽な方へとヒトは流れてゆく。そして自分自身に
色々と言い聞かせ、正当化しようとする。本来、詐欺師になるには
林真須美ほどの図太さとイッチャッてる感が必要なように思う。
「こんな時代」「社会のせい」
良心のある犯罪者はいつだって自分以外の何かのせいにしたがる。
そういう人に限って影でニートを笑っているのかもしれない


金がある者は強い。なぜなら不自由なく金を使える
富裕層は、今の世の中1%ほどの希少価値があるからだ。
金を得ることは容易ではない。だから金や金のある社会的地位を
持つ者へと寄って行く人々は本質的にパラサイターか詐欺師だ。
前者の場合、それはカマキリの体液を吸いながら生きるハリガネムシと
本質的に何ら変りはない。自然界の肉や蜜が金という人工物の紙切れに変ったに過ぎない。それはごく自然の摂理のように思う。


だが不思議なことに世の中には金を求めることが醜いという
風潮がある。だから誰も金を求める自分を認めたがらない。
やまとなでしこの松島菜々子のように声を大にして
金が欲しいと言えばいい。自分が楽をしたいと言えばいい。
相方の地位が私のアイデンティティですと言えばいい。
金の切れ目が縁の切れ目。宿主に生き得る要素を見失ったら
逃げればいい。結婚相手に金や地位を求めるヒトは自分が
そういう生き物だと認めればいい。だがそれは
自尊心に関ってくるので認めたがらない。
肩書きや地位。宿主にそういうものを求めるヒトは、対象にそれが
なくなった瞬間に逃げるのはあるいみ必須のことだろう。


ライオンが小鹿を喰う。ヒトはそんな光景を見れば
殺傷だし生々しいと思う。だがそれが紙切れ一枚に変化すれば
良心に問うこともないのだろう。食材は限られている。
奪い合いという原理は同じなのに。


僕は声を大にして金が好きだと本音を語る西川史子はいいと思う。
だが大抵のヒトは金を求める者は醜いという価値観がある
ためそれを認めたがらない。


「金」を求めると大抵のヒトは精神を病む。それを乗り越える
図太さがあれば別の話だが。だから金を求めるなら「額」
を決めればいい。得た金で何をするかが一番重要なことの
ように思う。


僕の価値観では、金は最低限食っていける範囲で存在すればいいも
のだ。本来は交換の手段に過ぎない。それ以上、求めることは
第三者の犠牲ナシにはやっていけないものだと思う。


金がほしいなら自分の時間を売って働けばいい(無職の
僕が言うのもなんだが)。金に不自由なく暮らせる仕組みを
作る努力を自分ですればいい。宝くじは買わなければ
当たらないというが買っても当たらない場合の方が圧倒的に
多い。金は何もしなくても手に入るものではない。
せめてパトロンを見つける努力をする必要がある。


今金は、無限に膨れ上がっている時代だ。
プロミスでも銀行でも金を借りれば金利が発生する。
労働をしなくとも金が生まれる時代。金が金を産み、
そして無限に膨れ上がっている。膨れ上がった金は
一部の富裕層の手に入り、パンピーには還元されない。
膨れ上がった金の犠牲を受けるのはパンピー並びに、
第三世界の人々だ。発展途上国の借金の金利は無限大
に膨れ上がっている。そこで犠牲を払うのは
低賃金の過酷な労働だ。近年では、そういった
第三世界の借金を全て帳消しにしようという動きも
あるが実現には至っていない。


不況で自動車が売れないとかなんとか言っているが、
それでも世の中はなりたっている。必要以上
にものを生産し続け、それが僕らの時間を奪う
起因となっている。日本人は真面目だ。少しでも
残業の時間が少ない者は白い目で見られる
こともある。それがお互いの首を絞めあっている事実
だというのに。


いつの間にか本来限られている資源も、金を生む材料に
過ぎなくなっている。石油や小麦などの資源も投資商品
へと変貌している。いわゆるマネーゲームだ。無限に
増殖し続ける金の代償は僕らの時間の搾取に過ぎない。


サブプライムの前例は、バブリーな頃、相続税対策と称し
て必要以上の金を貸し大量の債務者を作った銀行にもある
というのに。これからはこういう金の奪い合いの問題が
増えていくのだろう。


くどくど書いたけど、結局ミヒャエル・エンデが
言ったように、金が自然界においてなくならない存在
であり、キープできるものだということで全て解決が
つくように思う。


金がどうなるかわからない時代、金をあまりかけずに楽しめる
人間が明らかに得なように思う。


ビールと枝豆
飲んだ後のラーメン
立ち飲み屋1000円で深酒
梅干と焼酎
二日酔いでお茶漬け
友達と家鍋