インドの山奥瞑想したら②
【6日目】
朝と昼に一回ずつ、オ○ムシスターテープで瞑想法を伝授される。
指導にあまり変化はない。鼻の穴と上唇の間のチャップリンひげゾーンに意識を集中すれだとか、感覚の荒削りな部分を徐々に減らしていけだとかその程度の差異で本質は変わらないのだ。
忍耐強く、一生懸命働きかけなさい。
やがて全ての部分の感覚が現れるでしょう。
オ○ムシスターはそう語っていたが、鼻下の感覚に集中してもよくわからない。グルの面談でそのことを告げると「そのうちわかるよ」と言われたが、その部分に注ぐ息のことではないようだ。
午後になると、鼻の下に集中しているとこれかなという感覚があった。熱と温かみを感じるが非常に繊細でかすかなものだ。
一体何を目指していいのかわからなくなってくる。相変らず眠気が矢のように降り注い
でいる。
僕の席は戸口に近く、続々とサボり出る少年たちがうるさかった。そのせいか、前方のデブは場を移し、最後部に陣取っていた。
【7日目】
朝一で最後部に場を移すが、スペースが少なく、結局はデブの右となりに座ることになる。フロアの角には分厚い座布団が積み重なり、ヤツはそれに背をかけ、澄ました顔であぐらを組んでいる。しょっぱなから無効試合を決め込んだようだ。
朝のテープはグルの瞑想法が数分流れる。色々語った後に「アニッチャァ、アニッチャァ(無常、無常)」それが終了の合図でそこからは1時間半ほどの沈黙が流れる。最後はテープに合わせ、「サドゥ、サドゥ、サドゥ」と合唱して瞑想はクロージングとなる。
その日は完全に集中力が切れ、午前のコマをほぼ半寝状態ですごした。
昼食後、午後一の瞑想で気合いを入れて臨むと、奇跡は訪れた。
1時間ほどしてケツが痛くなってくるが無視して無心を保っていると不思議な感覚になった。
痛みだけど痛くないのだ。
心が平穏、ひたすら平静。生き物のように動く痛みが面白い。
痛み、もっとかかってこーい!
パルスに圧力、熱……心の目を体の部位に向けると、体の八割がたから何らかの感覚を感じる。ぶるぶるとバイブにでもなった気分だ。
キタ!
心と体が分離していることがわかる。
心は凧のようにふわふわとどこかに浮かび、漂っている。心と身体の各部位は透明な糸で繋がっている。その糸は普段は見えないのだけど、無心を保ち、あるがままの状態を保つと忽然と姿を現してくる。秘密基地への鍵は、体内の感覚をひたすら観察することで手に入るようだ。
パルスに踊る肉体を、意識の船が漕いで行く。ざわめきをあげる肉体の海。心はボランチ、舵取りだ。心地よい感覚の合間に雑念も浮かぶのだけど、泡のように忽然と消えうせていく。
瞑想はサイレントパーティだ!
今までまるで気づかなかったけど、体の内側では24時間年中無休、およそ80年は続くパーティーをやっていたんだ。どんなにリズム感がない人も、どんなに音に疎い人も、みんな一人一人がDJなんだ!
だから、今の自分をどう楽しませるか、そのことだけに集中して生きていれば人生というものはこれほど愉快なものはない。
人に親切な行いをするのも、生きてるうちに見返りが返ってくるとか、あの世で魂レベルの高い世界へ行くためだとか、そんな打算的な目的ではない。ただその瞬間、心のなかでいい音を鳴らし、自分の気持ちがよくなるためなんだ!
最後のマントラクロージングが気持ちいい。いつもの断末魔がまるで賛美歌のようだ。
この時のトリップが10日間のなかで最高のものだった。
気持ちよい感覚を追い求めると不思議なことにその感覚は消えうせてしまう。痛みを嫌悪していると、その痛みは強くなっていくばかり。
これは、世の中の現象ととてもよく似ている。
だから病気の人に「頑張れ」と言ったり、病気を戦いのように言ってはならない。
日本人は特に我慢すること、苦痛に耐えることを美徳と考える傾向にあるがこれは間違っている。
あるがままに、「自然君、おまかせコースでお願いします」これが一番楽しくて、楽な生き方なんだろう。
涙のしょっぱさも内臓をしめつける痛みも、心に開いた穴のような不快感も、ビルの屋上から街の景色を眺めるみたいに観察してれば、いつか収まり消えうせてしまうもの。
恋の甘さもエクスタシーも、満ち足りた優越感も、追い求めれば渇望という不快感を生み出す。
気持ちのよい感覚を味わったことよりも、世の中の真理を体の内側で感じたことに僕は感動した。
【8日目】
昨日昼間に目的を達成したので一気にやる気がなくなった。
グルの美声のはずが、スナック街の酔っ払いの歌声のように聞こえてくる。
熟女の解説によると、解脱を感じると、人間の肉体が微粒子の点滅に過ぎないことを悟るそうだ。パルスではなく、もっと細かな泡のように微細な感覚なのかもしれない。
世の中は「あるともいえるし、ないとも言える世界」仏陀の空の考えだ。
化学が進歩し「世の中は、ひも型の弦が振動している状態ではないか」と考えられるようになる2500年前、仏陀は体感的にも、哲学的にもそのことを理解していたのだろう。
そういえばどっかの哲学者も「世界は様々な形に広がる波紋に過ぎない」みたいなことを言っていた。表現法は違えど、頭のいい人は同じようなことを言うもんだ。
午前中の瞑想。心は無。ただおだやか。
じんわりと優しい気持ちに包まれ、ありがとうと無音で唱える。
昼食のあと、シャワールームに数時間放置していたボディソープがなくなった。
グルに神聖な「盗まない」の誓いをしているのにさすがはインド。
夕方、参加者は別棟のパコダ(寺院)でも瞑想をすることが許された。このパゴタのなかには、弓形の廊下沿いにずらりと一畳ほどの独房が並んでいる。外からしか鍵をかけられない不思議な小部屋だがサボるにはいいだろう。
安心して壁に背をもたせていると、悪ガキがカクレンボ大会をおっ始めてしまった。
夜の講話。
チンタマパンニャという言葉に反応した。読んだり聞いたりして知っただけで経験の伴わない知識のことで、何事も自分の経験が一番大事という内容だった。
23年前のお話を聞きながら、沈思黙考した。
情報だけでおなかいっぱいになる時代。現実をゲームのように思える時代。
何を目指していいのかわからない時代。わからないから共感だけでごまかされている時代。
僕たちのセンサーは大量の情報スパイスの刺激で麻痺している。情報過多は飽和を生み、人はより刺激の強いスパイスを求めていく。だから公開自殺を煽るようなバカが生まれる。
物に満ち溢れた生活を送っていると、油膜のような濁りで感覚が麻痺してくる。咽喉の渇きも増してくる。
誰でも失えば研ぎ澄まされてくる。元々人間は、生きているだけで幸せを感じられる不思議な生き物だ。
そんな真面目なことを考えていると、猛烈にビールが呑みたくなった。
【9日目】
満足してしまうと人間の進歩は止まってしまうらしい。
朝からヤル気はなく、適度にサボるために、一番後ろで時々壁に背をもたせることにした。隣のデブは相変らず座布団ミルフィーユに深々と背をもたせ、早くも眠り呆けている。
最後に流れるグルの詠唱が猛烈に長い。一度あきらめてしまうと時間が過ぎるのが余計長くなってくる。ケツがプルプル振るえる。
瞑想の感覚は他人と比較しても意味がないという。同じように自分の過去と比較しても意味がない。そのことを意識しても、やはり雑念が浮かび、集中できない。
昼間なるべく考えを封印しているせいか、夜、枕に頭をもたげると妄想が涎のように溢れてくる。
深津絵里の泳ぎ目は絶妙。エキストラおじぎしすぎ。
「先生、愛ってなんですか?」「エッチの次にあるものよ」「自慰ってなんですか?」「自慰はエッチの前段階よ。みんなそのステップを踏み大人になっていくの」その日の英語のテスト。少年のアルファベットの回答…ABCDEF自慰エッチ愛JKLMN…。
【10日目】
講話(ディスコース)によると、瞑想を極めればつま先から頭のてっぺんまで一息のうちに全ての部位の感覚を味わえるらしい。そんな自分にホイミみたいな技できっかよとふてくされ、瞑想には集中できず。
昼食。冷たい空気のなかで食べるりんごがうまい。ぼやけているが、甘い蜜が体の節々まで染み入っていく。
りんごは明らかに食われるために生まれてきた。梨もみかんもぶどうもモモも、明らかに食われるために生まれてきた。
【11日目】
朝9時、遂に沈黙が解除される。
その日は昼と夜に少し瞑想するだけで明日の朝には全員がこの場を去る。
感想をきくと、この瞑想法による感じ方は様々だ。
ひたすら寝ていたという人もいるし、しんどいだけだったと語る人もいる。阿修羅マンのように腕が膨張していくような感覚になった人もいる。どう感じるかは、自分次第だということがよくわかる不思議な体験だ。
日ごろから考えごとが多い人にはいいかもしれない。
あん時ああすれば良かった。私のバカ。馬鹿馬鹿馬鹿。ネガティブなこと考えると悪いことが起きるので、どうしよう、あわわ。楽しくないのに楽しいって言い聞かせると無理が出るし、かといってネガもやだし。
心の暴走は癖だ。迷走より瞑想を。
参加した日本人は僕のほかに女性が二人いたけれど、そのうち一人が実はミクシィで何度かメールをやり取りした人だったので驚いた。お互い、インドにいることは知らなかったのに。まさかこのデラドゥンで、しかも月2回行われるスケジュールまでぴったりとは…。僕はミクシィに縁があるらしく、以前にもマイミクしただけで会ったこともない人と、同じ会社の同じ部署で働くことになったことがある。
シンクロニシティ、意味のある偶然、世の中って不思議なことが時々起こるもんだ。
旅先で知り合った人でも、会いたいなとか、会えるだろうと思っていると意外と会えないのだけど、何も考えていないと、突然ばったり出会ったりする。時間は未来から過去へ流れている川のようなものだという説があるけど、その川をサーフボードで上るには渇望しない無心が重要なのかもしれない。
昼食後はビデオを見た。デリー刑務所の囚人がヴィパッサナーに取り組むというドキュメンタリーだ。
コカイン密輸で懲役6年を食らったカナダ人がインタビューに答えていた。
「僕のママは僕が今どこにいるのかわからないだろう」
そんな悲しい台詞を吐きながらも彼は晴れ晴れとした顔を浮かべていた。
書物を紐解くと、瞑想を極めればコカインなんか目じゃない、ドーパミンやセロトニンが大量に脳に出るらしい。オナニーなんかしなくてもいくらでも気持ちよくなれるのだ。
夜の講話、テープの語り手がいつもの熟女と違う。
素人丸出しの女だ。異様に焦った口調で、まるで頭に入ってこない。
講話後、就寝時間を過ぎているが男子宿泊寮の中庭ではなごやかな談笑が行われていた。
17歳の少年が「ふんどしはおちつく」と語っている。
その演説のあとは下ネタ談義に花を咲かせ、なぜかいきなり宗教の話題になった。
インドのヒンドゥー教徒は仏陀を嫌ってるそうだ。理由は仏陀は永遠に続く魂(アートマン)の存在を認めなかったからだ。一方ネパールでは、ヒンドゥー教徒でも仏陀が好きだ。母国の英雄を否定できないのだろう。
ネパールと同じく火葬が主流のインドだがパールスィーと呼ばれるゾロアスター教徒は、遺体を川に放り投げるか、山に放置してハゲタカに食わせるという。同教にはターバンでおなじみシーク教徒と共に金持ちの信者が多い。携帯から自動車まで、巨大タタグループ一族もゾロアスター教信者だそうだ。
金持ちがハゲタカに食われるとはなんとも不思議な気もするが、少なくとも彼らの肉体は確実に自然の一部となるのだろう。
「EAT THE RICH!」
オランダの左翼系スクワッターがそんなグラフィティを描いていたが、ハゲタカ君がその仕事をしていたらしい。
【12日目】
朝起きてすぐ、オ○ムシスターによる最後の講話が始まった。
人が渇望や嫌悪を抱くと、宇宙はそのエネルギーに同調して変なものばかり集めてくるという話だった。そんな宇宙には愛情を持って接するのがいいらしい。
そういうわけで、世界人類と自分自身の幸福を願うという瞑想を伝授される。
そこでふと田舎にある「世界人類が平和でありますように」という札看板を思い出した。
いい言葉ではあるけど、あの看板には陰気なものを感じてしまう。いっそのこと、イチゴ模様で埋めちゃえばいいのに。せめてボブマーリーのステッカー一枚でも貼ってくれ。
渇望と嫌悪。
シスターは語る。「今の感覚を大切に」
わかっている。けどみんな、過去を憂い、未来に思いを馳せる。
渇望と嫌悪。
人間のなかでもっとも強力な磁石に世界は反発する。
この世界のキーワードは今を大切にするということ。
納豆が好きすぎて納豆風呂に入る少年、あれこそが人生の全てなんだ。
今に夢中になるほど、その人の人生は豊かになっていく。
その逆に悪いことを考えると悪いことが起きると心配することはない。
悪いこと、と思ってる時点で、その人はいい人だ。心のなかで神様にバカと言っても、神様はバチを与えない。宇宙が反響してくるのは意識ではなく、潜在意識にある、なにか、なんだろう。
人生は怖がらなければ、大抵のことはうまくいく。もちろん自分の思いどおりにいかないことは多いけれど、いつだってごほうびは思いがけない、よくわからないタイミングで訪れる。
宇宙はまるで、ガラクタばかり拾ってくる犬みたいだ。だからこそ気楽に生きればいい。
最後の朝飯はプリーという揚げチャパティにじゃがいも入りのスープカレー。
10日間で一番うまいごちそうだった。夢中で食べていると、頻繁にサボっていたデブ
が声をかけてきた。
「おれはほとんど寝ていた。けど瞑想したら戦争は起きねえな。みんなマリファナやれば戦争起きねえのと一緒だ」
晴れ晴れとした笑みは、彼なりの苦行が済んだという安堵を物語っていた。
朝食後、荷造りをしていると、興味心身で少年たちが観察してきた。
インドにいると、誰でも芸能人気分だ。
……で、ボディソープ盗んだのは誰よ?
帰りのバンで一同はバスターミナルへ向かう。もともと優しい人だったがさらに優しくなって神のような笑みを見せている。「アイネバースモークシガレット」とさわやかな笑みで語るイスラエリー。浄化の喜びをただひたすらにかみ締める面々。だが僕は早々に煩悩と戯れることにした。
面々と別れ、早朝のレストランにレッツラビール!。
たまねぎの輪切りとフォスターズラガーを注文。
胃にしみる魔法の液体。一ヶ月ぶりのビールは上質な食べ物のように感じられた。
合わせてニコチンもやる。WINという貧乏人の代名詞的煙草。
咽喉に激。
その昔、治験ボランティアで血を抜かれまくった3日後の朝の煙草も、たしかこんなに強烈だった。それでもしばらく吸っているとニコチンが美味しく迎い入れてくれた。
ヤギ???
夕刻のデラドゥン発デリー行き電車、ガラガラだと思っていたが、次の駅につくとすぐに人が乗ってきてあっという間に満杯になる。この電車の切符が取れたことを奇跡のように思うが、インドではどこへ行っても人が追いかけてくる。
塩辛い魚介風味のポテトチップスをかじっていると10日間の体験が思い浮かび、涙が出てきた。
胃の中に入ったポテト、それが明日のパルスを生み出している。太ももの内側、心臓の近く、どこかでざわめきをあげ、何かを叫んでいる。
彼らの命は失われたけれど、ばらばらになった彼らはこの体の一部となっている。永遠の自我なんかなくても、あの世も前世もなかったとしても、皮膚の内側で今、止まることのない輪廻は続く。空気や水、生物たちの輪廻。
体のなかに宇宙があり、宇宙のなかに僕らがいる。宇宙という化け物に食われた人間は80年の歳月を経てゆっくりと消化され、ばらばらになってその一部となる。僕たちは胃の中のじゃがいも一粒と何ら変わりない。
ゴアの安宿で見つけたグラフィティ
深夜1時。デリー、メインバザールの宿、広々としたダブルベッドの上で久々のオナニーをする。精子の量が思ったより少なくて残念。精巣工場は、足りなくなったら生産し、補充するというシンプルなシステムを採用しているらしい。
タバコにビールにエロ動画。
これから煩悩だらけの生活を送っていれば、いろんなものへの感謝とありがたみも薄れていくだろうけど、あの感動は、忘れない、忘れない。